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 トリスタンとイゾルデ   tristan und isolde 


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指揮者 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
オーケストラ フィルハーモニア管弦楽団
合唱 コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団
合唱指揮 ダグラス・ロビンソン
トリスタン ルートヴィッヒ・ズートハウス
イゾルデ キルステン・フラグスタート
ブランゲーネ ブランシュ・シーボム
マルケ王 ヨーゼフ・グラインドル
クルヴェナール ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ
メロート エドガー・エヴァンス
牧童 ルドルフ・ショック
水夫 ルドルフ・ショック
舵手 ローデリック・デイヴィーズ
プロデューサー ワルター・レッグ
ディレクター
レコーディング・エンジニア ダグラス・ラーター
録音年月日 1952年6月10〜22日
録音場所 ロンドン・キングズウェイ・ホール
初出 HMV (EMI)
ALP1030〜6
初出年 1953年
CD EMI
CDS556254-2


レコード・メモ
不滅のトリスタンとイゾルデ、レッグとフルトヴェングラー、フラグスタートの記念碑
EMIのカタログから、発売以来一度たりとも廃盤になったことの無い、唯一のモノラル・レコード。これは、フルトヴェングラーとウォルター・レッグの確執のピークに録音された。

この企画の前年、レッグはカラヤンの指揮で「魔笛」を制作(1950年録音)したが、そのアンサンブルはフルトヴェングラーがザルツブルグで育ててきたものをそのまま「盗用」した(とフルトヴェングラーは感じていた)もので、別の文献によれば、レッグはザルツブルグのプロダクションを基に、最初のオペラ録音としてフルトヴェングラーにこれを提案しながら、カラヤンによって秘密裏に制作したという。
フルトヴェングラーはEMIにレッグを排除するか、さもなくば自身の契約を破棄すると迫っていた。このトリスタンより後のフルトヴェングラーのHMV録音はコリンウッドの制作になる。一方レッグはフラグスタートにカラヤン指揮でトリスタンの録音を提案していた。フラグスタートは、フルトヴェングラーの指揮、レッグの制作でなければ唱わないと宣言、これにより実現した録音。
また、当初はブランゲーネにマルタ・メードルの起用を予定していたが、この録音の一ヶ月後にバイロイトでイゾルデを唱う彼女の参加は、ヴィーラント・ワーグナーによって阻まれた。

第2幕で(おそらく2カ所の高いハ音を)、レッグの妻になる(1953年)シュヴァルツコップがフラグスタートに変わって声を提供し、この事実が漏れ伝わったたことがスキャンダルとなり、フラグスタートの引退へと繋がった。
従来この差し替えはレッグによるテープの切り張りと伝える記事が多かったが、後にシュヴァルツコップは、レコーディング時の、繰り返し歌わねばならない高音に不安を感じるフラグスタート自身の依頼で参加したこと、そしてこの参加はセッションのその現場で、フラグスタートの背後に立つシュヴァルツコップが、その瞬間だけ声を提供したもので、レッグによる勝手な編集との非難に反論した。「その話は絶対に口外されるべきでは無かった」と・・・。

22日にトリスタンの録音が完了した翌23日、フルトヴェングラーとフラグスタートは、レッグの下で、ブリュンヒルデの自己犠牲を録音する。
最後のプレイバックが終わると、フルトヴェングラーはレッグにこう言った「私の名前はこれによって記憶されるだろう、とうぜん君の名前もそうなるはずだ」。この発言はシュヴァルツコップによると、このレコードはほんとうの意味で共同製作なのだから、ウォルター(レッグ)の名前もレーベルに印刷すべきだ、と言ったという。

さらに2セッションの余りが残っており、前年のザルツブルグで協演したフィッシャー・ディースカウと「さすらう若人の歌」を録音することが決まった。楽譜の手配を命じ、新たなセッションに身震いするレッグに対してフルトヴェングラーは言い放った。「私は君に「トリスタン」を約束した。君が手に入れるのはそれだけだ。私にコリンウッドを呼んでくれ。」
6月24日25日の2日間で「さすらう若人の歌」はコリンウッド制作で録音を完了した。

参考文献
サム・H・シラカワ「悪魔の楽匠」 "Devil's Music Master"
ハンス・フーベルト・シェンツェラー「フルトヴェングラーの生涯」
エリザベート・シュヴァルツコップ「レコードうらおもて〜レッグ&シュヴァルツコップ回想録」
ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ「追憶」