richard wagner homepage

 報われないジークフリート 
back to essay index
back to home


ワーグナーのオペラの様々な役柄の中で、もっとも重要な役の一つにジークフリートがあると思います。ワーグナーを歌うヘルデン・テノールとして究極のパティがこのジークフリートじゃないかと思うのですが、一方この役を歌わせられる歌手ほど報われない役回りは、他に無いのじゃないでしょうか?・・・。
音盤に残されたジークフリートを聴きながら、長年感じてきたことをまとめたいと思い、この小文を書き始めました。
 
最初にジークフリートを聴いたのは、ショルティの『指環』でこの役を歌うヴォルフガング・ヴィントガッセンでした。ものの本によれば、このヴィントガッセンこそ戦後バイロイトを支えたヘルデン・テノールの鏡、模範的ジークフリートということで、まあ、はぁそんなもんかなと、それなりに感銘を受けたはずなのですが、それより何より楽劇「ジークフリート」のとらえどころの無さに辟易したことを覚えています。
(その後、私の作品に対する理解も共感も深まり、楽劇「ジークフリート」に魅力を感じられるようになったのですが、今でも『指環』4部作の中でも「ジークフリート」が一番縁遠く感じられるのは変わらないのですけれど)
ヴィントガッセンのジークフリート
後に、ドナルド・キーン氏の「音盤風刺花伝」という本の中で、戦前のメット(ニューヨーク・メトロポリタン・オペラ)のワーグナーを聴いて育った氏の感想として、ラウリッツ・メルヒオールを引き合いに出しながら、戦後バイロイトの歌手の中で一番弱い部分として真のヘルデン・テノールの不在を嘆く文章を見ることになり、かのヴィントガッセンにしても「有能な歌手」であることは認めつつ「ニルソンとの二重唱では半人前」でしかないとの批評に、そんなもんなのかなぁ・・・と、ではメルヒオールって何もの?、どういう声が理想のヘルデン・テノールなんだろう・・・と思ったものでした。
(この本は、当時の(1970年代半ば)の日本のクラシック音楽批評界の論調とは一線を画すもので、違和感を感じながらも面白く読めたものです。現在でも中公文庫から「私の好きなレコード」のタイトルで発売されていますので、ぜひ、ご一読をお薦めします)
 
メルヒオールの歌唱は、後にまずワルター/ウィーン・フィルの戦前の「ワルキューレ」第1幕のジークムントで、次にフルトヴェングラーのやはり戦前のコヴェントガーデンの「神々の黄昏」抜粋で聴くことができたのですが、さて、これが理想のヘルデン・テノール、夢のジークフリートなのかと問われたら、この貧弱な録音では、どうも、よくわからない・・・というのが正直な感想でした。
さらにメットでの放送用実況録音を元にしたボダンツキー指揮の「ジークフリート」を入手し、これがすごい歌手陣で、まあ、今世紀前半を代表する理想的な配役布陣で、こんなメンバーが毎晩かわるがわるワーグナーを通常のレパートリーで上演していたと思うと夢のような話なのですが、この「ジークフリート」、音質もこの時代(1937年)としては驚異的な聴きやすいものだったのですが(同時期メットの「神々の黄昏」がNAXOSより発売されましたが、こっちはヒドイ音です)、それなりに素晴らしいもので、立派な声だなぁと感じないでも無いのですが、前期の印象を覆すには至りませんでした。
(むしろ、若きフラグスタートのブリュンヒルデに、もう、涙が流れるほど、涎が垂れるほど顎が落ちて口が開きっぱなしになるほど驚愕、感動しました。ああ、戦前のMETのフラグスタートのブリュンヒルデの全曲盤が遺っていて、このジークフリートと同じくらいの音質で公刊されますように!)
ワルター「ワルキューレ」第1幕

ボダンツキー「ジークフリート」

ボダンツキー「神々の黄昏
ジークフリートを歌った歌手たちの録音、思い出すままその名を列記しますと、ラウリッツ・メルヒオール、マックス・ロレンツ、セット・スヴァンホルム、ベルント・アルデンホッフ、ルートヴィッヒ・ズートハウス、ヴォルフガング・ヴィントガッセン、ジェス・トーマス、ヘルゲ・ブリリオート、マンフレート・ユング、ルネ・コロ、ジークフリート・イェルザレム、ライナー・コルベルク・・・、それぞれの時代のヘルデン・テノールの第一人者の名前が連なります。では、さて、誰が理想のジークフリートだったのか?どのジークフリートにおまえは共感したのか?、リファレンスとなる模範的歌唱だったのかと問われると、答えにつまってしまいます。
これがジークムントなら、ショルティとベームの全曲盤でこの役を歌ったジェームズ・キングや、クナの第1幕のみの録音で歌っているセット・スヴァンホルム、ブーレーズ盤のペーター・ホフマン等々次々と名前が上がるのですが、さてジークフリートはというと・・・。
 
史上最初の『指環』全曲(ショルティ/ウィーン・フィル)を制作したDECCAのプロデューサー、ジョン・カルショウの著した「指環〜プロデューサーの手記」には、ジークフリートを歌う歌手の選択・決定の苦労が記されています。
録音当初カルショウたちは、完成した全曲盤でこの役を歌っているヴォルフガング・ヴィントガッセンではない、別のある歌手「我らのジークフリート」にこの役を託したものの、理想的な声を持つこの「我らのジークフリート」が、セッション当日になってもこの役をマスターできておらず、素晴らしい声と裏腹に表現力の欠如したもので、これでは使い物にならんと、慌ててヴィントガッセンに出演を要請せざるを得なくなった顛末が記され、読者もまるでその場に居会わされているような、迫真の表現で綴られています。
この著作の中で、カルショウは率直に録音当初、その実績にもかかわらず、ヴィントガッセンをジークフリートに選ばなかった理由を記していますが、 そこで記された理由以上に、彼らの世代のヘルデン・テノール観というか、この役柄への憧れには、ヴィントガッセンの歌唱では満たされない何かがあったことを、私は感じてしまいます。録音スタジオでのヴィントガッセンがどれほど素晴らしくその任を全うしたかを讃えるカルショウの筆にも、もう一つ満たされない何ものかについてのリザベーションを感じるのです。
ちなみに、同書で「我らのジークフリート」と伏せられていたこの歌手の名前がエルンスト・コツープであることが最近明らかにされました。「ジークフリート」録音直前の、DECCA/ショルティ/ウィーンの「トリスタンとイゾルデ」でメロートを歌った歌手で、そう思ってメロートの声に注意して聴いてみますと、なるほどこの声だったのかと、ちょっとメルヒオールを思い出させる素晴らしい声です。
コツーブ「トリスタンとイゾルデ」
ヴィントガッセンの引退後、ますますヘルデン・テノールの不在が嘆かれるようになりました。ヴィントガッセン以降の最初のジークフリートはジェス・トーマスでした。パルジファルやワルター、ローエングリンを歌っては理想的な歌唱を遺したこの歌手は、ヴィントガッセンの活躍中からすでにバイロイトの常連であり、未来を嘱望されたのですが、スタミナに難があり、最後まで持たないと批判されました。その声自体にもジークフリートに要求される強さを保ち得ないと。ヘルゲ・ブリリオートやトニ・クレーマーなどがトーマスとともにバイロイトでヴィントガッセン以降のジークフリートを受け持ちましたが、前任者と比べて劣る点ばかりが非難される有様で、誰もまともにヴィントガッセンの後継者とは見なされませんでした。
次に期待された新星がルネ・コロです。 ルネ・コロのデビューはカラヤン/ドレスデンの「マイスタージンガー」でのワルターだったと思うのですが、以降ショルティの「パルジファル」「タンホイザー」でタイトル・ロールを歌い、バイロイトでも登場回数が増えるものの、あの声はヘルデン・テナーじゃない、リリック・テナーだという批判が常につきまといました。
そのようななか、二人の将来有望なテノールが登場しました。ペーター・ホフマンとジークフリート・イェルザレムです。殊にペーター・ホフマンがブーレーズ/シェローの「リング」にジークムントとしてバイロイトに登場したときの評判は圧倒的なものでした。その後パルジファル、ローエングリンへ役柄を拡げるも、バーンスタインとのトリスタンを最後にぱったりと消えてしまいました。声を失ったとも、ロック・ミュージシャンになったとも伝わっていましたが、真相は存じません。本当に残念なことです。
一方イェルザレムは、その表現が未熟だとか、声が荒れているとか批判されながらも、バレンボイム/クプファーの「リング」でジークフリートを務め、バイロイトを始め、METその他各地でトリスタンからパルジファル迄のすべての作品のテノールのタイトル・ロールを演じきり、1990年代を代表するヘルデン・テナーの地位を確立したと思います。けれどもたとえばショルティの自伝でも「魔笛のタミーノならともかく、ワーグナーのヘルデン・テノールには無理だ」と書かれているように、その評価はアンビバレントです。
一方、一時は伸び悩んでいるかに見えたルネ・コロでしたが、私たち日本人に、コロが80年代に大きく飛躍したように見えたのは、1987年、ベルリン・ドイツ・オペラの日本公演でチクルス全体で立派にジークフリートを演じてからだったと思います。これが彼にとって初の日本公演だったのですが、とにかく日本で『指環』を通し上演したのも最初なら、「神々の黄昏」もこれが日本初演だったわけで、レコードではわからない、実際の舞台で、あの大管弦楽を飛び越えて声が響き、最後まで聞こえる声で歌いきる力を見せつけられました。以降ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演でトリスタン、タンホイザー、バイエルン国立歌劇場来日公演でワルター、ウィーン国立歌劇場来日公演でパルジファルと、ワーグナーの重要な役を次々と上演し、レコードでもクライバー/ドレスデンのトリスタン、ヤノフスキーの『指環』でのジークフリート、ビデオでバレンボイム/バイロイトのトリスタン、サヴァリッシュ/ミュンヘンのリングでのジークフリート等々が発売され、伝統的なヘルデン・テナーの声質とは異なる彼の声に、それでも彼なりに力強い表現を加え、独自の魅力を開拓し、私たちにとって時代を代表するワグネリアン・テナーの地位を確立したように見えます。
ただ、彼ら3人とも、半人前と批判されたヴィントガッセンと比べてさえ、軽量級の感は禁じ得ません。明るくリリックで繊細な表現を誉め称えることにやぶさかではありませんが、これがヘルデン・テナーなのか、これがジークフリートなのかと問われると、さて、どうなんでしょう・・・と、答えに戸惑います。他に誰がいるのかという反論はできるのですが・・・。
コロ「マイスタージンガー」

コロ「パルジファル」

コロ 「タンホイザー」

ペーター・ホフマン「ワルキューレ」

ジークフリートを見て、いったいあれのどこが世界を救済する待望の英雄なんだ?、ただのバカじゃないか?・・・という非難は、昔から様々な人の口から漏れて出ました。これは、そのままこの役を演じる歌手に対して、それを演じる表現の難しさを課したと思います。同じヘルデン・テノールの持ち役であるジークムントやトリスタンと比べても、普通の意味での感情移入や性格表現の可能性が大きく阻害されているのです。なんとなれば、人間でなければ神でもない、怪力で恐れを知らない、ついでに言うと知恵もなく無慈悲、それでも世界を救済する超人、ワーグナー自身が望んだ究極の英雄なのですから、生半可な感情移入など受け付けてくれません。
楽劇「ジークフリート」では、ほとんど出ずっぱりで、スタジオでの録音ならともかく、実演では疲労困狽、くたびれ果てている状態で、3幕幕切れ、それまで出番の無かったブリュンヒルデの輝かしいドラマティック・ソプラノとえんえん30分以上、二重唱を歌わねばならないという、歌手の体力を無視したむちゃくちゃな仕事です。この役を歌える超人的歌手を獲得することの難しさに、ワーグナー自身苦労して、後のパルジファルでは主役のテノールの出番を大きく制限したと、作曲家の孫ヴィーラント・ワーグナーも述べているそうです。
『指環』の諸役では、敵役のハーゲンやフンディングなんかのほうが、遙かに格好良く、聴き栄えのする場面を多く持っていて、昔からこれらの役を歌う歌手に事欠くことはありません。儲け役だと思います。歌手で言うと、昔ならヨーゼフ・グラインドル、ゴットローブ・フリック、最近でもマッティ・サルミネン、ジョン・トムリンソンと次々と名前が浮かびます。テノールでもローゲやミーメなどのキャラクター・テナーならハインツ・ツェドニク、グレアム・クラークなど素晴らしい歌手がいます。
ところがヴォータンやジークフリートなどの主役級となるととたんに人材に不足してしまいます。ハーゲンを歌って素晴らしい演唱を聴かせたトムリンソンも、後にヴォータンを歌っては、ハーゲンを歌ったほどの強い説得力を感じさせてくれるとこまでにはいきませんでした。それには現代という正義や真実に安直に共感できない、胡散臭さを感じずにはおれない、時代の雰囲気のようなものが背景にあって、これらの諸役を演じるうえでの難しさがあると言えるかと思います。ヴォータンを神々の主神として気高く演じるより、権力の亡者として演じさせる方がリアリティを感じさせるということです。けれども、そのように演じられたヴォータンに共感できるかというと、それはまた別の問題で、かつてのハンス・ホッターのヴォータンに戻ってしまうのです。そのホッターの表現をそのままなぞったようなジェームズ・モリスのヴォータンに感銘を受けるかと言えば、これもまた別の話、何か鼻先の白む思いを受けてしまうへそ曲がりも、これもまた時代の雰囲気のせいにするのは自分勝手でしょうか?・・・。
でわ、ジークフリートは?・・・・。
 
レコードで様々な演奏を聴く場合、これは私自身の感性(?)の問題なのか、戦前のSP録音で聞ける歌手の声について、ソプラノのフリーダ・ライダーやフラグスタートについては、なるほど立派な声だ、素晴らしい演唱だと感銘を受けることもあるのですが、男性の声については、どうも判別するのが難しく、共感したり、感動したりしたことがありません。SP録音の素晴らしさを知らないわけではありませんし、事実SPならではの音の良さに感銘を受けないわけではありませんが、ことワーグナーの男声に関しては、メルヒオールもそうですが、ヴォータンを歌って最高と讃えられたフリードリッヒ・ショールなども感銘を受けることがありません。
戦後のテープ録音された音源になると聴きやすくなるのですが。けれどもこの時代はもはや戦後バイロイトの時代で、すでに歌手も代替わりをした後で、いわゆる黄金時代の後の世代なのです。この世代を代表するヘルデン・テナーがヴォルフガング・ヴィントガッセンというわけです。
 
なんだかんだと、くだくだ述べてまいりましたが、今まで聴いてきた中で、唯一私が面白いと思った演唱があります。マックス・ロレンツという旧世代の名歌手です。ほぼ、そのキャリアを終えようとしていたこの歌手の、最後の一時を伝える録音が遺っていました。フルトヴェングラーが戦後、未だバイロイトの再開も成されない1950年に、ナチ協力の嫌疑にかかわらず彼を暖かく向かえたイタリアの、ミラノのスカラ座で「指環」全曲チクルスを指揮するという一大イヴェントが企てられ、そこで「神々の黄昏」のジークフリートが、このかつての総統お気に入りの歌手に託されたのです。やはり謂われのないナチ嫌疑でアメリカから追われたキルステン・フラグスタートがブリュンヒルデを演じ、幸い実況録音されたこの録音を今では聴くことができます。そこで初めて聴いたマックス・ロレンツのジークフリートは、もう破茶目茶で、音符を無視して、リズムを崩して歌いとばす、とんでもないものでしたが、何故か妙にしっくりくるもので、これぞジークフリートと感じさせる何ものかを感じることができました。何度も言いますが、本当に滅茶苦茶な歌い崩しで、今ならどこでもこんな歌い方じゃ絶対通用しないに違いないというもので、とても人様に勧められるものではありません。どこがいいのかと聞かれても、これまた答えようが無いのですが、とにかくこれはスゴイ!と感じさせられ、この傍若無人の演唱に、妙になじむ、ジークフリートらしさを感じてしまう演唱なのです。
とは言え、これはおおよそ「模範的」の対局にある演唱です。心意気は買えるけれど、さりとてこんな歌い崩しが許されるというわけにはいきますまい。となると、理想のジークフリートは再び深い森の霧の中に霞んで見えなくなるのです。
マックス・ロレンツ「神々の黄昏」
2001.1.8